もう一回、観に行ってきましたよ~
ジャポネスク、2回目。
今回は、ど真ん中のすっごい良い席でした。(お手配してくださったJCSエンスー様、本当にありがとうございました!)

なんだかんだ言っても、JCSの音楽を聴くと、わくわくしてくるんですよねぇ。
もうね~、序曲が始まっただけで、ドキドキしてきて、自然とからだが反応してましたよ。

「序曲」を聴くとね、ジーザスを演じる役者さんが出番を待ちながら、舞台裏で聴いてる姿を想像しちゃうんですよね。そこで、こう、ググッと集中力を高めて行くのかな~なんて。

そして、あ、ここでジーザス登場!と思うと、もう、きゃ~っヾ(≧▽≦)と、なります。
ジーザスがどんな登場の仕方をするか、それはそれは、楽しみなんですよ。

映画のサントラと比較すると舞台版の方は、通常序曲は1分程短いみたいなんですが、どうでしょう。もうちょっと聴きたい・・っていうところで終わっちゃう。映画の方は編曲をアンドレ・プレヴィンがやっていて、舞台にはない場面転換や最後の磔シーンの音楽は、プレヴィンが書き足しているんですけど、本当に素晴らしいと思うのです。それは、ウェバーは気に入らないと思うけど。

おっと~これ以上、横道?にそれていく前に・・・感想に移ります。(メモとかとってないので記憶を頼りに・・・)



ジャポネスクは、ユダが主役なのでした。

今回も柳瀬ジーザスに、芝ユダでした。

序曲でユダが一人舞台に立って、キメのポーズを2回くらいするんですけど、めっちゃくちゃカッコイイ。このまま行ってくれ~と思ったのだけど・・・

そのあとに出てくるアンサンブルの踊りが・・・・orz

以下、印象に残った場面について少々。。。

彼らの心は天国に
最初から自殺の場面まで、ユダが一番、感情表現が豊かで、ジーザスは悲しげな表情で正面を見据えていることが多い。これがユダを主役として観客が目で追ってしまう所以だろう。ユダが唯一、舞台上の人々とコミュニケーションをとろうと躍起になっているし、同時に客席に向けても歌いかける。
ジーザスは、人々に優しく手を差し伸べるけど、それは与えているのであって、交流とは違う。

イエスは死ぬべし
青木カヤパは、ジーザスを忌々しく思っている感じはしない。というか、司祭さん達にとってジーザスが脅威なんだという危機感が何ともゆるい。「ジーザスは死ね」と歌う部分に説得力はあるのだろうか。アンナスは個性のある方だなと思ったら、喜納さんだった。しばらく四季から離れていた私ですら知っている長く頑張っている俳優さんだ。

ホザナ、熱心党シモン、哀れなエルサレム(プログラムでは、”ホサナ”となっていて濁らない)
ホザナのリフレインのところがどうもつなぎがしっくりしない感じがしたけど。
シモンは・・・・やっぱり、クレイジーになりきれないまま。。。声もちょっとくるしいかな。
なぜか、群集は場面の切り替わりごとに、舞台にころがっていることが多い。
起きてて欲しいと何度思ったことか。うーん。ここまで群集を単純化することが果たしてよいことなのか疑問。

私はイエスが分からない
マグダラのマリアは、歌うときに、一切、ジーザスに触れない。
一人で彼への想いを歌い上げるだけ。ジーザスを愛撫するくらいのことをして欲しかった。

最後の晩餐
パントマイムで何かを飲んだり食べたりしている様子があるが、舞台の奥で輪になっているので、よく見えない。その弟子たちの背中越しにジーザスが、「このパンは~」と歌っているのはどうなのか。これがあの最後の晩餐なのだが、宗教的な意味や意義はここには存在しない。
ユダとジーザスのやりとりで、昔の歌詞とは変更されていて、昔の方がもっと直接的で、英語に忠実だったのになと残念に思う。「嘘つきめ、このユダ」と叫ぶジーザスの方が好きだ。
私の頭には鹿賀ジーザスのCDの歌詞がかなり頭に入っているので、それが私にしみついていることを発見した。
ユダが走り去るときに、なんと一緒に3人の弟子たちもついて行った。追いかけて行ったとすると、ユダの味方なのか、どういう意図があるのか。
残された8人は、ぼんやりと、歌い続ける。ここはやっぱり私には笑えてしまう。何も考えていないにもほどがあるでしょう。もう少し感情を与えてあげて欲しいな~弟子たちに。

ゲッセマネの園
柳瀬ジーザスは、高音は裏声を使う。彼は音域広いのではないだろうか。裏声になると、現実に引き戻されたような気持ちになってしまう。

逮捕
ユダがジーザスにキスをする場面。
「見捨てるのか、ユダ」というジーザス。ここは、やはり以前のまま、「裏切るのか」の方が良くないだろうか。

ペテロの否認
ペテロが「知るもんか、あんな奴」と言うのだが、どうもこの有名なシーンすら描き方が軽めじゃないか。

ヘロデ王の歌
かの有名な下村ヘロデ。彼の人力車をひく役者さんの衣裳がヘロデによく似ていて、なかなかカワイイ。でもやっぱり、助六を見てみたかった。

やりなおすことはできないのですか
飯田ペテロは声が良い。上手だった。

スーパースター
ソウルガールズを坊主にしてしまったのはどうしてだろう。
天国から来た女性たちには薄着でいて欲しいものだが・・・^^
しかも、踊らないっていうか宙吊りのゴンドラ?に乗っているので身動きできないまま、スーパースターは終わってしまう。
私は芝ユダさんの声はとっても良かったと思うので、非常に勿体ないと感じた。

ということで・・・

非常にシンプルに、舞台を進行させていて、その速さの中で、俳優たちの視線は客席に向けられていることが多い。誰と誰がどういう関係なのか、図式的に単純化しているので、ある意味分かりやすい。聖書物語を知らなくても全く問題なくストーリー展開にはついていける。

私が色んなプロダクションのJCS音源や映像に接するときに注目するのは、ユダのジーザスに対する愛や、マリアの切ない愛、そして3人の微妙な関係である。非常に人間的な感情が交錯することを作者たちは作品に織り込んでいるからだ。それに、ピラトは、引き裂かれるような苦渋の選択を課せられた、主役級の人物である。しかし、この人物たちに与えられた立体感までもが、そぎ落とされているのがジャポネスクの演出であるように思う。

「レミゼ」や「ミス・サイゴン」のような作品は、繊細な芝居を要求されて、涙をさそうミュージカルであり、作品が意図するところは、JCSとは全く違う。私にとってJCSは、終わったあとに、一体あれは何だったんだろう・・・と、衝撃と同時にある種の疑問が残るような作品である。

もちろん、ジャポネスクを見て衝撃や感動を覚えた方は多いのだろうと思う。

私も、新鮮な感動や衝撃を受け入れるだけの心のゆとりや広さを持ち合わせていると思うのだが、あれは「ジャポネスク」という全く別の作品なのだと感じた。英国で評価された記事がサイトにも紹介されていたし、プログラムにも掲載されているが、あれは全く違うキャストによるものであり、今から何年も前のことなので、今回の公演の為に引用しなくても、ジャポネスクは既に知られた作品なのにと思うのは、私の余計なおせっかいだろうか。昔のことはいいから、今日、ジャポネスクを上演する意気込みこそ私は知りたかった。

あとは、やっぱり、音楽はナマで聴いてみたかった。
和太鼓も笛も演奏者の息遣いが聴こえるものである。和楽器と洋楽器という相反する音の出し方をするものたちが、ロイド・ウェバーの原曲で掛け合いをしたなら、大変な迫力があっただろうし、演奏者たちの合いの手が入っていたなら・・・とあれこれ考えると、さらにジャポネスクをジャポネスクたらしめたのではないか、とおせっかいな妄想はとまらなくなるのであった。。。。
by tomokot2 | 2007-07-01 22:44 | ペ猫が観た舞台・ライブ | Trackback | Comments(5)
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Commented by J.B. at 2007-07-02 02:45 x
私もようやく見に行ってきました、ジャポネスク。今回は、以前バルサモジーザスを一緒に見た友人たちとの3人連れ。一人は、四季のJCSも何度か一緒に行った友人で、もう一人は、バルサモジーザス以来初めてのJCS観劇。劇場の入り口のところで流れているVTRを見て「おお日本語で歌っている!」と新鮮な反応をしてくれました(笑)

私にとってのスタンダードなJCSは、ロンドンのJCSですから、四季のJCSは別物として楽しんでいます。
ジャポネスクバージョンは、様式美的な、形で見せていく作品のように思われます。

別物としても、ご不満があるのはよくわかります。私もペルシャ猫さんの感想を読みながら、頷いておりました。観劇中は、ときどきバルサモジーザスが頭の中を駆け巡っていたりもしました(笑) 『私はイエスが分からない』では、マリアはジーザスを膝枕していたなあとか、ラストはキスしてたなあとか・・・ そういうラブラブモードに比べると、淡白なマリアですよね。

Commented by J.B. at 2007-07-02 02:45 x
続き。
最後の晩餐で、ジーザスが、晩餐の席についてないというのは、これはねえ・・・ 違和感ありますよね。自分でワインを持って「このワインは」と歌ってほしい。離れたところからの「そのワイン」「そのパン」は、悲しいです。構図的にも、最後の晩餐じゃないし・・・


まあ、いろいろ気になったところはありますが、それでも、やはりジャポネスクの方が、なんか、人とは違う、自分たちのものを作ってやろうという演出という気がしています。

そうそう、今日のジーザスは、今までに見た柳瀬さんのジーザスの中で一番表情がありました。今まで、ジーザスが表情を作らないのは、そういう演出だからなのだろうと思っていたので、ちょっとびっくりしました。表情があった方が、分かりやすくてよいような、神秘性が損なわれるような、複雑な気分です。


ちなみに、今回が初見の友人は、いまいちだった様子でした。

Commented by tomokot2 at 2007-07-02 09:26
J.B.さん

コメントありがとうございます!

>自分たちのものを作ってやろうという演出という気がしています。

そうですね~。初演はほんとに手探りだったでしょうね~。
今は完成された「作品」になっていますよね。それはそれで、良いのだろうなと思いますが、違うJCSも日本で観たいな~^^
コンサート形式でも良いからな~なんてねぇ。。。。

>淡白なマリア

そーーーー。そうでしたね。
ま、全体的に感情は極力おさえて、それも演出意図だし、表情が読み取りにくいのも計算の上なんですからね。エルサレムはどんなふうに違うか楽しみです。
私は、70年代の子供のためのミュージカルから80年代前半までの四季をよく観ていたのですが、さすがに20年のときを経たなと、感慨深いものがありました。ミュージカルをここまでやるようになるとはね~。なかなか良い経験でございました★
Commented by ガムザッティ at 2007-07-06 22:53 x
はじめまして。
ものすごいJCSファンに出会えて光栄です。
私も夫がものすごくフリークな影響を受け、JCS大好き人間です。
遅ればせながらジャポネスクバージョンを観て、いろいろ思うところあり。
テッド・ニーリーの存在感と高音域の見事さに、
今更ながらに感服いたしました。
Commented by tomokot2 at 2007-07-07 08:03
ガムザッティさん

>ものすごいJCSファンに出会えて光栄です。

こちらこそ!!この、マニアックな世界にはまっている小さなブログを見つけて下さって、どうもありがとうございます!!
ガムザッティさんのところにもおじゃまさせていただきました。
ジャポのご感想、ステキです!大変気持ちよく読ませていただきましたっ☆
これからもおじゃましたいので、お気に入りに登録させて下さい♪

>テッド・ニーリーの存在感と高音域の見事さに

テッドは、神様なんで・笑
テッドがいなかったら、このブログも始まっていませんでした~。
なぜか、この作品から離れられないのも、テッドのせい(笑)かもしれません。
また、お立ち寄りいただけたら嬉しいです。JCSファンのご主人様にどうぞ宜しくお伝え下さいませ☆
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