私がもっとも好きなシーン 「最後の晩餐」
私がJCSの中で、一番好きなシーンは、「最後の晩餐」かもしれません。

この場面から「ゲッセマネの園」→「(ジーザスの)逮捕」への流れは、あれよあれよという間の出来事ですが、ひとつの「流れ」を感じます。



その流れの中で、ジーザスとユダの対立と微妙な関係が露呈し、使徒たちもまた、二人とはまるで違う方向を向いているという、それぞれの立場や考えが見事に表現される導入部として私は、「最後の晩餐」が始まるとわくわくしてしまいます。
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何本かYouTubeに違うプロダクションの最後の晩餐がありますので、貼っておきます。それぞれ7分くらいありますので、時間がある時じゃないと大変ですよね(^_^;)ま、いづれどうぞ。

73年の映画の画像を使用させてもらうので、こちらが、映画の最後の晩餐

こちらはつい最近YouTubeに出てきた最後の晩餐1994年ADツアー。ジーザスはテッドニーリー、ユダは故カール・アンダーソン。画像も音声もひどいんですが、映画で共演してから20年以上経過してさらに熟成しているなと思います。

2000年ビデオ。最後の晩餐ジーザスはグレン・カーター、ユダは、ジェローム・プラドン。We Will Rock Youでガリレオを演じたトニー・ビンセントが使徒の一人、シモンを演じています。

2005年Austrian。最後の晩餐。昨年上演されたばかりの欧州プロダクション。ジーザスはスティーブン・シール。ユダはドリュー・サリック。

さて、「最後の晩餐」の冒頭シーン。
十二使徒たちは、ジーザスとダイニングテーブルを囲みながら、優しいメロディにのせて歌います。「あ~、俺達いいことやってるよね。今日もよく頑張った。さあ、ご飯だ。」みたいな、のどかな感じがします。

苦しみも辛さもみな葡萄酒で忘れて
私たちの美しい一日もやがて暮れていく
みんなで明日からもあの人に従い
私達の名前をいついつまでも残しましょう。

(劇団四季の歌詞から↑)

Look at all my trials and tribulations
Sinking in a gentle pool of wine.
Don't disturb me now, I can see the answers
'Till this evening is this morning, life is fine.
Always hoped that I'd be an apostle.
Knew that I would make it if I tried.
Then when we retire, we can write the Gospels,
So they'll still talk about us when we've died.

ジーザスは、ワインを注ぎ、パンを分けながら歌います。

最後が友の手で訪れる 辛いことだけれど
そのワインは私の血潮 そのパンは私の体
みんないつの日にかワインとパンとで私のことを思い出すだろう

(劇団四季の歌詞から↑)

The end...is just a little harder, when brought about by friends.
For all you care, this wine could be my blood.
For all you care, this bread could be my body.
The end! This is my blood you drink.
This is my body you eat.
If you would remember me when you eat and drink.

と、突然、ジーザスの歌が興奮した調子に変わります。

ペルシャ猫訳↓
私を思い出してくれ・・だって!?私は気が変になったのか!?
そうだ、どうかしてる!
皆、何も分かってない顔をしてるじゃないか。
私の名前なんて、私が死んだ10分後には意味を失うことになる。
おまえ達の一人が私を否定し、
一人は、私を裏切るだろう。

ピーターは数時間のうちに、私を3度知らないといい、
この晩餐の席にいる私の十二使徒の一人が裏切り、去って行くだろう!


I must be mad thinking I'll be remembered.
Yes, I must be out of my head.
Look at your blank faces. My name will mean nothing
Ten minutes after I'm dead.
One of you denies me.
One of you betrays me.
Peter will deny my in just a few hours.
Three times will deny me,
And that's not all I see.
One of you here dining,
One of my twelve chosen
Will leave to betray me.

ここからがユダとジーザスのすさまじいかけあいです。

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Judas: Cut out the dramatics! You know very well who . . .

ユダ: 芝居がかったことを言うのはやめてくれ!それが誰だか知ってるくせに。

Jesus: Why don't you go do it?

ジーザス: 行ってなんでもするがいい。

Judas: You want me to do it!

ユダ : あなたは、俺にやらせたいんだな。

Jesus: Hurry they are waiting.

ジーザス: 急げ、彼等が待ってるぞ。

Judas: If you knew why I do it . . .

ユダ: どうして俺がそんなことするのかあなたに知って欲しいのに・・・。

Jesus: I don't care why you do it!

ジーザス: 理由なんか知りたくもない!

Judas: To think I admired you. Now I despise you.

ユダ:  あなたを信じてついてきたのに。今は軽蔑してる。

Jesus: You liar. You Judas!

ジーザス: うそつきめ!このユダ!。

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え?なんでジーザスはこんなに怒っているの?とぽかーんとするのは十二使徒だけではありません。見てる方の私たちも、こんなに興奮したジーザスって?とビックリするのです。でも十二使徒は、相変わらず、ず~っと、♪おいらたち、歴史に名が刻まれるんだよ。大丈夫さ、使徒として、あの人について行きさえすれば~♪と、みんなで歌い続けます。


d0079799_2156013.jpgここで、考えさせられます。どうしてジーザスは、ユダが裏切ると分かっていて、やめさせるどころか、あれほど激しく「出て行け」と言い放つのでしょう。ジーザスとユダは親友で、一緒に苦労して来た、一番近い存在だったはずなのに。もうちょっと言い方があるんじゃない?と最初は思いました。

ジーザスは、ユダが自分を疑うようになったことを怒っているのでしょうか。皆と同じでおまえは、何も分かっていないくせに、自分を裏切っても身を滅ぼすのが分からないのか、と嘆いているのでしょうか。上にはむかう男に、むやみに腹を立てるようなそんな、王様や支配者じゃないでしょう、ジーザスって?じゃ、なぜ?何があったの?以下は私の解釈であって、作者の説明ではありませんので、感想文と思って読んで下さい。(^-^)

私は、ユダがいつしか師弟関係を越え、ジーザスと対等になり、上に立って自分の考え方を師に押しつけようとしはじめてしまった感じを受けます。

ジーザスより上になること。

それは神様を見下すのと同じことになってしまいます。「ゲッセマネの園」を聴いて感じたのは、ジーザスは、人間に目先の利益をもたらす為に生きていないのです。人間界の小さな、そのとき限りの常識の中でなんて生きてない。ジーザスは、神様の言葉を伝える役目を負っていたと思います。そして、数々の救いを行いました。

ただ、ジーザスは温かい血の通った人間としてJCSでは描かれており、そのとおりだと思います。彼は、大きな役目を背負っていることを自覚しており、その実現のために、神様からの後押しも大きく受けてきた。しかし、たった一人ですべてを背負うのはあまりにも荷が重い。

「ほかの誰があなたの期待にこれほど応えられたでしょうか。私は、3年間、必死で頑張ってきた。3年が90年に思えるほど、すべてをかけてきたのです。」と歌うのです。

一切を放擲して、神様の思し召しのままに生きてきたジーザスにとって、「あなたを崇拝しています。あなたの為ならなんでもします。」という民衆の賞賛は、イコール神様への賛美なのだと思っていたのではないでしょうか。自分をとおして神様の意思を知ってくれているんだ。欲得に目がくらんだ人間たちは改心の証をたてているんだ、と信じていたのではないかと思うのです。

ずっと右腕として置いてきたユダが、「俺達を扇動して大騒ぎになっているのも全部あんたがやったことだ。見ろ!あんたは、傷ついた動物みたいに疲れ切っているじゃないか。」と腹の底にあるものをぶつけて来る。ジーザスは、「出て行け!」としか言いません。何を考えているんだ!神の意思を妨げようなど、思い上がるな!おまえは神の使徒ではなかったのか?という怒りをユダにぶつけているのでしょうか。でもね、きっとこの怒りは、ユダ一人に向けられた怒りではなく、民衆の無理解に向けられたものではなかったのでしょうか。もう、自分には時間がないのに、どうしたらいいんだ。

耐えられないような重圧の中にありながら、ジーザスは、苦しむユダになお、両手をさしのべるのです。どんなにあがいても、変えられないことはあるんだ。私たちの手の届かないところで定められている。ユダ、おまえもその中に巻き込まれてしまったんだよ。私にだってどうすることもできない。ユダをいたわるジーザスの愛は、彼には伝わっているのでしょうか。

ユダの狂おしいまでのジーザスへの愛があふれだしているのが見えるから、とてもいたたまれない気持ちになります。
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キリスト教でどのようにこの部分を教えられているのか、私には分からないので、あくまで、「ジーザスクライストスーパースター」という作品の中での私の解釈です。

この作品の核を為しているのは、ジーザスとユダの対立です。
ユダは、この物語の進行役のような存在です。彼の目をとおしてジーザスとその周辺の人々のことが語られて行くのです。ユダが自殺してしまうと、この先、一体ストーリーはどう展開するのだろうと思うのですが、ユダは、見事に「Superstar」で再登場します。ああ、やっぱりジーザスの物語をひっぱたのは、この男だったんだなと、感じます。

ユダが、「最後の晩餐」の終わりに、さんざん言い争ったジーザスを前に、まるで懺悔か、何かを告白するように歌ったのと同じ歌詞が「Superstar」の冒頭で歌われるのです。天使たちと一緒にショー形式で歌う有名なあの曲。

俺はあなたを見るたびに疑問がわくんだよ。
どうして手に余るようなことをしでかしたんだい。
計画的にすすめていれば、もうちょっとうまくやれたんじゃないのかい。


Every time I look at you I don't understand
Why you let the things you did get so out of hand.
You'd have managed better if you had it planned...
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英語の歌詞は同じでも、「最後の晩餐」のラストで、ユダが泣き出しそうな顔で歌う同じフレーズは、日本語訳は同じにはできません。

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あなたを見るたびに私は理解に苦しんできたのです。
あなたの手には負えないような大きなことにどうして手をだしたのですか。
よく考えて行動したなら、こんなことにはならなかったはずです。


Every time I look at you I don't understand
Why you let the things you did get so out of hand.
You'd have managed better if you had it planned...

こう言い残して去ったユダが、あの世から、この続きを歌います。

 ジーザ・スクライストは、スーパースター。

 あなたは本当は誰なの?何のために苦しんだの?

 聖書に書いてあるとおりの人なの?。


Jesus Christ, Jesus Christ,
Who are you? What have you sacrificed?
Jesus Christ Superstar,
Do you think you're what they say you are?

「ジーザスクライストスーパースター」が、1970年以来、多くの人々の心を惹きつけてやまないのは、この一曲に込められたテーマが、遠い遠い歴史の彼方にある記憶が埋め込まれた一人ひとりの「魂」への問いかけになっているからなのではないかな~と、思うのです。
by tomokot2 | 2006-10-13 14:38 | JCS作品&基礎知識 | Trackback | Comments(13)
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Commented by JCSエンスー at 2006-10-13 16:54 x
ペルシャ猫ちゃん
(パート1)

すごい! とても面白い解釈だ。
ペルシャ猫ちゃんはもうここのシーンで『ジーザス=神の子』としての行動だと思っているのだな。
当然、神の子であるからペテロの否認とユダの裏切を予知し得ることができた。しかし、神の子であるとその後のユダとの対立(対決)シーンのジーザスの激しい言動が説明できない。それを上手に説明して皆に納得できる解釈を導いてるのには感心しやした。すばらしいの一言につきやす。

おいらもキリスト教での神が理解できないひとりで、神が何かをしてくださるとか・契約で約束の地へ導いてくれるとかが実感として湧かないのが本音でやす。やおよろずの神に囲まれて生まれて育った人間は神をハッキリしない対象物として理解しており、神社で一方的にお願いするかお正月に拝む対象でしか生活の中に神は存在しないのである。

しかし、ペルシャ猫ちゃんはとても美しく解釈するのね。それが正しいのだろうと思うけど。
おいらはドロドロ劇志向なので普通の人ではとても見ていられないJCSの解釈になってしまうのだ。
さて、ドロドロ劇志向の解釈に続きやす。
Commented by JCSエンスー at 2006-10-13 17:00 x
(パート2)
さておいらの解釈はと言うと。
おいらはジーザスを神の子にしてしまうとこのシーンの説明がつかなくなってしまうので『ジーザス=人間』で解釈していやす。
このシーンでの感情たっぷりセリフを中心に考えるとジーザスは人間でなくてはならず、彼の予知能力は彼特有の超能力と解釈してやす。
つまり、ジーザスとユダの人間ドラマがここで繰り広げられているので、ジーザスとユダとの人間愛・師弟愛・恋愛をメインにしないと勿体なさ過ぎるのである。これらの色々な愛を表現してるのがJCSだと思っていやす。冒頭から最期までユダからのジーザスへの愛がビンビン伝わってきてやすし。

おいらはJCSに出会った時からこんな解釈をしており、2000年ビデオバージョンで確信を持った状況でやす。
ここがペルシャ猫ちゃんとは違う解釈とJCSを理解していく過程の違いだと思ってやす。

実はおいらの解釈はとても危険な思想で若者がサイキックへ流されたり危ない新興宗教への入信のキッカケになっていやす。この現象においてはとても複雑な心境になるのだが純粋にJCSを楽しもうと思うと『ジーザス=人間』の解釈が自分に合っていると思っていやす。
Commented by tomokot2 at 2006-10-13 17:56
あまりよく分からないのですけど、私がJCSを見るときには、ジーザスは、神様=大きな意思の力と対話が許された数少ない「人間」だった、という解釈をしています。
あくまでも人間ですから、痛みもあるし、悩みもある。ただ、人にはそれぞれ生まれて来た理由があると思うのですが、その理由を知ってしまったからこそ、ジーザスはがんばれたし、ゲッセマネで血反吐を吐くような問いかけを神に対してしている・・・という理解です。
「神の子」だとしても、赤い血潮の流れる、人として、肉身を持った者であるという解釈を私はしています。
JCSの中では、神の子なのか?とヘロデやピラトやカヤパに問われてジーザスは、あなたがそう言っている。という姿勢を崩さない。それで罪人扱いになっちゃいますけどね。
人類にとって、神様は「父」のような存在・・・という感覚を私は漠然と持っています。それを体現したのがジーザスだったのだろうという感覚です。神と人との間にいる聖者っていうのかな。亡くなられてからは聖霊になられ、神聖な魂から、さらにあがって神様の域におられると思いますけど。
神様の考え方は人それぞれなので、不愉快な方がいらしたらごめんなさい。
Commented by グリーンアイル at 2006-10-13 20:42 x
私も「最後の晩餐」のシーンが一番好きです。感情がむき出しになりますよね。人間ジーザスが一番良く現れているシーンだと思います。ジーザスはそこで複雑極まりない人間的な感情を吐露しています。

メル・ギブソン主演の映画「Passion」ではジーザスは迫ってくる「受難」「犠牲」を恐れ苦悩しています。目を覆いたくなるような恐ろしい「痛み」を体現して人々に「癒し」を与えなければならないのです。

加えてこれは私の意見ですがJCSでは性別を超えた愛憎が垣間見えるような気がします。これは美しいトニーのジューダスに限るかもしれませんが。(^^ゞ
Commented by tomokot2 at 2006-10-13 23:37
グリーンアイルさん

トニーの性別を越えた愛憎・・・(>_<)うっはあ~。
しかも相手はグレンだもんねぇ。美形同志の映像は私はまだ観ていないのですよねぇ。(YouTubeのちょびっとだけだから)JCSの見所のひとつが、ジーザスとユダの愛憎ですからね~。でも~、トニーのような美しいユダは、ほかにいないでしょう?大抵の場合、ジーザスがきれいで、ユダは・・・ですよね。
あ、一度だけ、テッドとカールがジーザスとユダを入れ替えて演じたことがあるらしいんですけど(うんと若いとき)、それは、ちょっと、ねえ。想像すると変な気持ちです。
Commented by はる at 2006-10-14 00:26 x
最後の晩餐のシーンには涙なくしては観れないです。
私はイエスは父の子であり、同時に、選ばれし人の子ではないのかなぁと思っております。
選ばれし者ゆえの孤独や苦悩を抱えつつ、自分の信じる真理を求めた人じゃないのかな、と。
人の子の苦悩を理解していたのはユダだけ…って…言いだすと映画のユダとは少し解釈が違ってきちゃうかぁ。うーん、ジーザス視点で語ろうとすると難しいですね。
Commented by tomokot2 at 2006-10-14 10:45
はるさん
やっぱり泣きますよね~、ここ。

>選ばれし者ゆえの孤独や苦悩を抱えつつ、

マリアの気持ちになっちゃいませんか?優しくいたわってあげたくなります。
テッドもカールも言ってますが、ジーザスとユダは友達だった。一緒に色んなことをやった仲間だって。私もそう思いますが、ジーザスには譲れない部分っていうのは絶対にあったんだと思うんですよね。ユダはジーザスの人間の部分をすごく愛していただろうから、二人には色んなジレンマがあったのかなとか、あのシーンは、ほんとに色んな想像を働かせることができて、とっても悲しいけど、大好きです。
Commented by 那由他 at 2006-10-17 16:36 x
ゲッセマネの園の最後の晩餐のシーンでは、登場人物が、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵の構図になって、一瞬静止します。
ダ・ヴィンチの絵は、ちょうどイエスが、「この中に私を裏切るものがいる。」と宣言し、それに対して、弟子達が、「それは誰ですか?」「私ではありません。」と言い募る場面です。

この場面は、イエスとユダの間には、非常な緊張感があります。
他の弟子達は、そのことに気付いていません。

民衆や、弟子達ですら、イエスが、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる政治的なリーダーだと期待しています。
しかし、イエスは救い主としての使命を預かって地上に来たのです。

もともとユダヤ教の神は、ユダヤ民族の神でした。
旧約聖書を読むと、何度も何度も、ユダヤ人が神を失望させるようなことをしているのが分かります。

Commented by 那由他 at 2006-10-17 16:37 x
神様は、ユダヤ人に限っていたのを、全人類へと間口を広げることにしました。
新約聖書では、接木をしたというような例えで書いてあります。

これはキリスト教から見た見解で、ユダヤ教では、それは認められないことです。

神様は、絶対的に「義」の存在です。
ユダヤ教では、「義」とされるために、いろいろな約束事を守ろうとします。
あまりに固執すると、愛の通わない律法主義といわれる場合があります。

バプテスマの(洗礼者)ヨハネは、心のこもって律法主義を批判し、「悔い改め」を勧めます。

ヨハネは、イエスの道を整える者としての使命を、理解しています。
イエスは、ヨハネから洗礼を受け、愛の神を人々に知らせる布教活動に入ります。
しかし、イエスには、人々を導くことだけでなく、もっと大きな使命が課されていました。

Commented by 那由他 at 2006-10-17 16:39 x
三位一体という考え方を聞いたことおありだと思います。
父、子、聖霊が、神として一つだということなんですが、とてもややこしい考えです。
例えば、H2Oという物質は、液体の時は水、気体の時は水蒸気、固体の時は氷、というように、状態は違っていても、本質はH2Oで同じだというようなことです。

Commented by 那由他 at 2006-10-17 16:40 x
この前、新聞の広告で、チラッと見たのですが、白血病のおねえさんのドナーとするために、子供を作った夫婦がいて、そのドナーとなるべく生まれさせられたけど、ドナーになることを拒否した妹さんの本の広告がありました。

ちょっと違うかもしれないのですが、イエスは、単に神の教えを説く預言者ではなく、あがない主として、地上に来たのでしょう。
ユダヤ教では、初子は神のものとして、神に捧げることになっていました。
家畜や作物は、焼き尽くすいけにえとすることができても、人間の子供はそういうわけには行かないので、「あがない」として、代わりの捧げ物をするのです。
それぞれ、規定があって、傷にない羊だとか、申命記あたりに詳しい規定が書いてあります。
そういう「あがない」という考え方から、人間全体の原罪をあがなうため、イエスがきたわけです。
 
人としてのイエスにとって、十字架刑の死は、苦痛を伴い、辛いことです。
だから、神様に、「この苦杯を取り除いてください。」と祈ります。
でも、「あなたの思いのままになりますように。」と付け加えます。
Commented by 那由他 at 2006-10-17 16:41 x
こう思うと、ユダも、神さまの計画の中で一つの役割を果たすことを、させられたのかなぁと思います。
ユダに関しては、私は同情を禁じえないし、ユダの魂も救われて欲しいと願ってます。

人としてのイエスは、人が経験する痛み、悲しみ、喜び、全てを経験したからこそ、私たちの救い主として、「義」なる神様と人との間にたつ、「愛」の仲介者として、信仰されているのだと思います。

長い投稿になってしまって、読みづらくてすみません。
Commented by tomokot2 at 2006-10-17 17:37
那由他さん
ありがとうございます。
ダビデ王、ソロモン王やモーゼのことまでさかのぼると、現代にいたるまでのユダヤ人の苦難の道に続く流れを感じるのですが、今日の世界情勢のニュースがそんな大昔のことに起源があるとは、なかなか考えないかもしれませんね。「話し合えば分かる」というような単純なものではないと、いつも感じます。幾重にも多民族、多宗教の歴史が塗り重ねられて来ているんですよね~。
聖書の解釈ですら様々ですしね。JCSにおける「ジーザス」は、人としての痛み、喜び、悲しみ、優しさ、慈しみをすべてあわせもつ温かい血の通った一人の男として登場することで、逆に人々に色んなことを考えさせてくれます。私は人間が背負っているものの重みをこの作品を通して感じます。決して色あせない感動がそこにあります。
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