「駆込み訴え」とJCSについての考察

d0079799_1428638.jpg最後に読書感想文なんて書いたのはいつだっただろう・・・。
そんなことを思いながら、つたない感想を書いてみました。

太宰治 「駆込み訴え」
ウェブ上で読むことができます。(Thank you! クワストさん)

この短編については、JCSブログの訪問者の方たちから機会を変えて何度か教えていただいてきました。
最初に読んだときに、聖書物語に関係していると意識していたので、冒頭の数行で、あ、これはユダの語りなんだとすぐに気づきました。
JCSもまた、ユダの視点で語られるイエスの物語という共通点から、ぐいぐいと引き込まれたものです。

今回、クワストさんからのコメントをきっかけに、何人かの方が感想を寄せてくださり、私もこの際、思い切って記事にしてみようと思いたち、アマゾンで検索して最初にヒットした本を取り寄せました。
「恋するための文学」・・・・?
この短編集の冒頭にこの「駆込み訴え」は掲載されています。

恋愛短編集を読み進む入口に、「駆込み訴え」をもってきた編集者のセンスって、面白いと思いませんか?



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私(ぺ猫)は、以前、あるカリスマティックな上司の秘書をしていたことがある。
毎日、多くの「お願いごと」をしたい人々からのアポ依頼や招待状の類に対応するのが私の仕事だった。上司と彼を支えるスタッフは、それこそ365日24時間体制で働いていた。スタッフはシフトをかえて休むことが可能だが、上司は休めない。いつも誰か他人の目にさらされ、完全にプライベートな空間で家族とゆっくりすごせる時間は、一年のうちに数時間がやっとだったのではないかと思う。上司が本当に心底休める場所はどこにあるのだろうと、部下の私が気の毒になるほど、人々は彼に休みを与える気は毛頭なかった。

どんなに精力的であっても、上司も人間である。すべての事柄を一人で取り仕切ることはできない。だから男性スタッフたちが上司の名代として対応したり、上司を支える為の裏方仕事をしていた。男性たちは上手に仕事を分担しているように見えたが、評価基準は女性の私にはよく分からないことが多かった。

私の目には、陰にまわって経理的な仕事をする男性や頭を下げてクレーム対応するスタッフの姿あってこそ、上司が自由に活動できるのだと思っていた。しかし、営業的な成績をあげるスタッフにスポットライトがあたることが多く、そのスタッフの人間性は評価の対象にならないようであった。今は立派に見えるスタッフでも、スネに傷があるという噂を耳にしたり、派手に見えるスタッフが実は地道な努力を重ねているという話は漏れ聞こえてきた。仲良しグループと徒党を組むのを潔しとしない一匹オオカミを貫く人もいた。

その男性たちの複雑な人間関係を見ながら、女性の私は、中立的立場にいられることを感謝したものだった。

そんな経験からか、私がJCSにおけるジーザスとユダの関係を考えるときに、ジーザスを中心とした12人の使徒たちが構成する組織の中での二人の存在、立場、役割を分析したくなる。

最初は、ジーザス一人だった。そこに弟子が一人、二人、と増えて行く。能力や得意な分野によってジーザスをどのように助けるか役割分担が自然となされていったのではないか。
やがて、ジーザスは大衆の注目を集め、民衆を率いるリーダーに押し上げられていくのだが、その舞台裏で人知れぬ労力を費やしていたのがユダだったのだろう。

「駆込み訴え」の中には、こうある。
 『・・・その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死にしてしまうだけじゃないのか。・・・』
やりくりしてあげても弟子もあの人もお礼の一言もない。パンと葡萄酒の奇跡まで、自分が手伝ったのに、とイスカリオテのユダは嘆く。

 『わたしはあの人を、美しい人だと思っている。』
この一節を読んだとき、「美しい人」という表現に、日本の劇団によるJCSの演出コンセプトが重なった。「JCSは、一人の美しい青年の物語」であるとして、宗教色を一切排除した演出を初演以来一環して貫いている。日本の舞台では、ユダはひたすら「美しい青年」ジーザスへの愛に苦悩し続けているように見えるのは、時代背景や宗教的要素をできるだけ取り払っていることも影響しているのだろうか。

「駆込み訴え」では、『美しい人』というところから、ユダは『あなた』への狂おしいほどの愛を切々と語り始める。はっきりと、『誰よりも愛しています。』と言い切るのだが、報われない口惜しさから、マグダラのマリアにあの人が『特別な感情を動かした』ことを激しく非難しはじめる。

ユダはマリアに嫉妬している。そこはかとなく漂う禁断の愛の香り。
JCSにおいては、私も73年の映画で、テッド・ジーザスとカール・ユダの間に交わされる眼差しに愛憎を感じ取って衝撃を受け、「愛」こそが裏切りの引き金となったのだと解釈していた。

「していた」というのは、初めて映画を観たのはまだ私が前述の上司のもとで働く前であり、最近、ユダのジーザスへの一方的な恋慕、という構図には、少々違和感を感じているのだ。あ、もちろん、73年の映画には、愛憎だけじゃない部分は感じてる。ただ当時の私には「愛」の部分ばっかりが見えていたということ。

そして、ひとつの答えを見いだしたのは、この映像。
2008年ウィーンのJCSコンのThe Last Supper
ジーザスはDrew Sarich、ユダはSerkan Kaya。
私には、これまでに観た「最後の晩餐」の中でも一際傷ましく感じられた映像だった。
数々の舞台で主役の看板を担ってきた今をときめく売れっ子俳優二人である。

なぜ、二人は目をあわせようとしないのか?

d0079799_22193945.jpg私には、二人だけがこれから起こることを察知していて、何もわかっていない他の弟子たちに、二人のやりとりを見せようとしているかのような、そう、劇中劇でも演じているような感じがするのだ。
お互いの心が見えてしまう辛さ。だから相手の瞳をのぞき込むことができない。
これは、ただの愛憎じゃない。何かもっと違うやりとりが二人の間には存在しているのではないか?
ユダは、ジーザスと歩み始めた頃に戻りたいと思っていた。ジーザスの志に、教えに感激し、この人について行こうと決めてから、すべてを捧げて来た。このままでは、何故自分たちが、こんな苦しい想いをしてきたのか分からなくなる。民衆は裏切るぞ。そしてジーザスの気高い「教え」が私利私欲に汚され、利用されてしまう。それだけは避けなくてはならない。
ジーザスには、ユダに言われるまでもなく、自分の行く末が見えていた。最早、誰も頼ることは出来ないことを悟り、自分の運命を受け入れようとしていた。

互いの痛みを接吻と愛撫で分かち合うかのような、ドリュー・ジーザスとセルカン・ユダの「今生の別れ」は、あまりに切なく見えた。

私の体験と照らし合わせてみる。
上司は聖者ではないし、スタッフは使徒ではない。だが、シチュエーションが重なるような気がするのである。
仕事を成功に導く為に、上司に耳の痛い進言をしなくてはならないスタッフがいた。上司から、正統な評価が得られない、或いは、進む方向が違って来たと感じる者は去って行くしかなかったが、一方で、何があっても最後まで上司について行こうと頑張る者もいた。残る者も去る者も、語り尽くせない様々な想いを抱いていた。多くは不平不満だった。
・・・・そして、私と上司の関係を疑う男性もいたのである。男の嫉妬とは「妄想」なのかと、その根深い恐ろしさを体験したものだ。

それらを踏まえた私のJCSコンの解釈は、ユダは、ジーザスが説いてきた教えを守るために、苦渋の決断をしたのではないか、ということである。一端、民衆の先導者としての地位を壊せば、もと来た道に戻れるはず。だが、もう手遅れだ。どちらに進むにせよ、リスクはあまりに大きいこともユダには分かっていた。引き返せないところまで追いつめたのは、最後の晩餐でのジーザスの態度だった。ユダが望んだ「裏切り」ではなかった。。。

「駆込み訴え」に戻ると、『あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。』とある。
恋に狂った者の勝手な理屈と言い訳で、『あの人』を愛していないのだ、復讐してやるんだ、と一気に暗闇に転がり落ちていくように、この短編は終わる。

太宰治のこういう独得の突き放したような作風は、現代の私たちには読みやすいのかもしれない。愛を語らせたら、心臓が高鳴るような美しい光景が目に浮かぶのに、次の瞬間には足下をすくわれて地獄へ突き落とされるような魔法のような文章だ。恋とは、そんなふうに紙一重なんだなと思う。だから、この「駆込み訴え」は、冒頭で述べたように、恋に関する短編集におさめられても全く違和感がないのだ。

しかし、どうしてまた、太宰は、こんなにも人間臭いイスカリオテのユダを描いたのだろう。

そもそもJCSと「駆込み訴え」には、作品としての関係性はない。
それこそ書かれた時代もところも違うのだ。だが、双方ともユダの視点から描かれた作品であり、聖書物語の登場人物を人間味豊かに表現しているという点が酷似しており、ティムがJCSの原形を着想するよりもずっと前に、日本人の作家が世に送り出していたことは大変興味深い。日本と少なからぬ縁のあるティムが、太宰作品に触れていなかっと誰が断定することができるだろう。ま、ティム本人が太宰作品についてこれまでに語ったものを見たことがないけれど。。。

JCSという作品は、観た人がすべて違う感想を持ちうるものであるし、製作する側も自由な発想で表現することに縛りがない。私がJCSに触れるときには、ジーザスとユダの関係がどんなふうに描かれているかが最も気になる。
たとえば以下のようなプロダクションは私の感性をくすぐる印象深いものだ。

◆73年の映画では、許されない愛、報われない愛が中心。Love&Peaceの70年代らしい。

◆2003年の北米ツアーでのセバスチャンバックとカールアンダーソン(YTからのいくつかの映像はこちらから)
ここには、父親のようにジーザスを諭すユダの姿がある。
年齢的にもカールはバズのお父さんと同じ年生まれだった。
ブート映像を見る限り、この二人に禁断の愛の香りは・・・無い。お互いを慈しむ感じ。
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◆1996年の英国ライセウム劇場でのバルサモとバーラ。
実際に舞台をご覧になったJ.B.さんによると、ジーザスはユダとほとんど視線をあわせないし、どうしてそこまで冷たい態度なんだろうというくらいあからさまにユダを避けていたらしい。一方で、ジーザスはマリアへの愛を情感たっぷりに表現していたという。ただ、ユダのジーザスへの愛は痛いほど伝わってきたという。
音源しか持ち合わせていないが、ジーザスもユダも、ただ一点に向かってまったく違う方向から疾走するような緊張感が伝わってくる。

◆前述のドリューとセルカン。
愛はある。でも、それは一段高いところにあるような純粋な愛ではないのだろうか。
ユダは図らずも自分の身を挺して、ジーザスの信義を守ろうとしたのか。

「恋」が報われないのは、よくあること、と諦められる。
でも、「愛」が報われないのは、なんとも切ない。
だってその愛は、自分の命を賭してまで、相手がこの世に生まれたきた意味を尊び、どこまでも相手を生かそうとする愛だから。
自分を愛して欲しいとかじゃなくって、相手が本当にやり遂げたいこと成就させるために、自分のすべてをなげうつ。親が子供に注ぐような愛もそのひとつかな。

性別を超えたユダとジーザスの間にある「愛」のかたちが見たくてたまらない私・・・。
二人が本当に守ろうとしたのはなんだったのだろう?
男として、人として、命懸けで全うした「真実」に、どんな意味があるのか。そういう生き方は、現代の私たちにも通じるものがあるのではないか。
これもひとつのJCSの自由な見方。

そして、「駆込み訴え」のような愛憎関係で見るのも自由。
美しいジーザスと屈折した想いを抱いて苦しむユダ。それもとっても人間らしい。

そうそう、マグダラのマリアが、ジーザスと男女の関わりを匂わせる部分に違和感を覚える人もあれば、ユダの愛との対比に人間的なドラマを感じる人もあるだろう。

「駆込み訴え」を読んで、改めて、JCSの魅力は、人間の根幹にある「愛情」とその表現にいきつくような気がした。
人と人との間に介在する「愛」を、分かり合う共通の翻訳機がない以上、自分たちで気づいていくしかないのだろう。そして私もまた、ちっとも自分のまわりの愛に気づけず、愛をどう表現していいのか、分かっていない愚かな人間なんだろうな。

私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。』

「愛していない」と宣言して、彼はただの「商人」の仮面をつけた。それは、泣き顔を隠したかったからかもしれない。
by tomokot2 | 2008-06-02 00:51 | What's the buzz?


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