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日本のJCS エルサレム・バージョン
日本のJCS エルサレム・バージョン_d0079799_1532715.jpg劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」を、先月のジャポネスク・バージョンに続いて観劇してまいりました。日曜マチネ。ほぼ真ん中のとても良いお席で見せていただきました。

写真はロビーの展示物です。日生劇場でのセットの模型です。こんな大きなセットは今の劇場では再現されていませんでした。

今年、四季のJCSは3回目なんで、区切りをつけるという意味で、詳細なレポを書いてみようかなと思います。記憶に焼き付いているものだけが頼りなんで、その点、ご了承下さい。
あ、あともちろん、ネタばれしてますので、ご注意下さい。




日本のJCS エルサレム・バージョン_d0079799_15425321.jpg開演時間となり、照明が変わって客席がスポットライトで照らされていたが、やがてその光が舞台へと動いたのかなと思ったときに、「序曲」が始まった。

これは仕方のないことなのだが、舞台下手のあたりのスピーカーからの音が出てくるのがよく分かって、ナマの音とはほど遠い音色が流れてきたときに、舞台を観るんだというワクワク感に水を差されたような気持ちになった。このスピーカーからの音が、終演まで、度々私を現実に引き戻し続けることになった。

私はサンシャイン劇場と日生劇場でJCSを観ているが、四季劇場「秋」はあまりにも小さく感じられた。広大な砂漠を連想させてくれていた金森馨氏のセットが、ここでは生かされていないように感じられて仕方ない。しかも、舞台の床表面がテカテカと光って見えて、微妙な傾斜を出すための継ぎ目らしきところは、セメントでも流し込んだような不自然さで盛り上がっているのだ。

「序曲」
ジーザスやユダも含めると群衆も含め舞台上にいるのは35~37人くらいだろうか。
いかにも窮屈な感じ。しかもその中に12人の使徒がいるとすると(全員同じ様に見えちゃって群衆と区別つかないけど)、あとの群衆は何人でマリアも含めて女性はどのくらいの割合で混ざっているのかなとか、そんな計算をしてしまった。

日生劇場で観たときには、ヘロデ王役の市村正親が群衆役でも出演しており、縦横無尽に舞台を駆け抜け、群衆たちは皆、序曲のビートにのってリズムをとり、踊っていたように記憶している。

今回の舞台では、わざとリズムをはずしているかのような動きはするが、若々しい踊りとか、はじけるような笑顔とか、そういうエルサレム・バージョンで私が最初に受けた印象は全くなくなっていた。ジャポネスクのときにもビートがない!と思ったが、こちらのアレンジのほうが更にリズムが薄れてしまったようで、「序曲」好きな私には、辛いものがあった。

「彼らの心は天国に」
ユダ(金森勝)は、冒頭からもだえ苦しんでいた。
芝清道のユダは、さめた目と怒りを秘めた知的なユダだったが、金森ユダは、いきなり死にそうな悶絶の表情を浮かべていた。ルックスはユダのイメージにあっているな~と思った。韓国人の俳優さんだそうだ。ちょっと高音が歌いにくそうだった。

しかし、ジーザスは舞台中央で病める人の手をにぎりつづけるシーンはもうずっと何十年も変わらないが、このジーザスの姿は、「神」と崇められ、群衆の中で頼られてきたことの象徴になるのだろうか。。。弱々しくはないか?

「何が起こるのか教え給え/不思議な出来事」
緊張感と迷いが、正直すぎるほど見え隠れするこのユダのお陰で、ジャポネスクの時のジーザスとユダのパワーバランスが、エルサレムでは完全に逆転することとなる。
それにしても、ジーザスがおっきなお口を開けて、まっすぐ客席を観て「なーぜーしーりたい」と歌うスタイルこそが「不思議」に見えてしまった私。

「今宵安らかに」
マリアは高木美果。ジャポのときの木村花代マリアより年齢が高そうな印象。
香油でからだを清めてあげるというよりは、水をふりかけているようなサラリとしたジーザスとのからみ。ジーザスとアイコンタクトはほとんど無い。
この場面で、ジーザス、マリア、ユダとの関係性をもう少し鮮明にしたほうがいいような気がするが、個人vs個人の深い人間関係を掘り下げないのが、ここでの演出法らしい。

だが、驚くのは一番最後である。ユダが消えていく方向に使徒らしき者が3人従っていくのだ。
ユダは一人で消えることはなく、3人の従者がいるというスタイルは、最後の晩餐のときにも繰り返された。ジャポネスクでも同じだったので、印象的だった。
裏切り者のユダには、仲間がいたのか???彼はひとりぼっちではなかったのか?
ユダの孤独や焦燥感より、全体の流れにこだわると、そういう演出になるのかな。
ユダだって使徒なんだから、仲間がいてもおかしくはないけど、使徒たちの中にも派閥があるような印象をつくりあげるっていうのは、ジーザスvs群衆を対比する演出方法につながるものを感じるのだが、どうだろう。
そして、もう一人、群衆にある人物が仕込まれているのだ。。。。

「ジーザスは死すべし」
群衆から離れて出てきたヘッドスカーフをした男がユダヤの司祭たちのもとにやってくる。
ジーザスは町で人を集めている、あ、今、側に来てますぜと告げ口をする。
スパイか~。
アイデアは分かるけど、肝心のカヤパとアンナスのキャラがぼけている。
憎たらしくない。ずるがしこい感じがしない。
昔、菱谷紘二がアンナスを演じたときには、どこから声が出ているのだろうという奇妙な歌声だったけどそれがまた良かった。しっかり演技もしていたように記憶している。
あ、そっか、歌は歌ってるけど、みんな客席をまっすぐ観て朗々と歌い上げるだけで、余計な演技はしないという演出なんだなと納得する。そこからは、歌を聴くことに集中しようと考え直す。
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「ホサナ」
見逃したが、さっきのスパイは群衆?にはねとばされたか何かしたらしい。
どこかしきりに痛がっているような様子だった。あ、ここでは演技があった。
日生のホサナはセットの奥から群衆たちがわ~っとわきあがってくるような感じがして、奥行きとスピード感があったような。規模が小さい劇場にこのセットはどうなんだろうと思ってしまった。

「狂信者シモン/哀れなエルサレム」
シモンの歌がちょっとパワー不足だし、群衆たちも音楽に乗った振り付けもされていないので、狂喜乱舞っていう感じが薄い。沢木順さんのシモンと比較しちゃかわいそうかな。
バラバラな動きの群衆の中、人間おみこしされているジーザスだけが、軽やかに音楽にあわせて揺すられている。
舞台中央でシモンが背中を向けてジーザスに手を広げる一瞬、シモンを観るジーザスの目が鋭く光った。あ、これ、いいな~。ゾクっときた。こういうのをもっとして欲しいのにな、と思った。

♪何ひとつ分かってはいない♪

と言うジーザスの言葉に、だらだらと群衆たちが崩れ折れて行く。
混乱というより、くたびれちゃったのかな群衆、という感じ。
群衆が舞台でねっころがると夜をあらわすのかな、などとぼんやり考えた。

「ピラトの夢」
目をつぶって拝聴。ピラト、動きなし。声だけで充分。

「ジーザスの神殿」
ジーザスが唯一と言っていいくらいパワーを発散させる場面。
ジーザスはもともと群衆たちとあまり行動を共にしている印象がないので、豹変したジーザスに驚いたというか、先生が急に怒り始めちゃったよっていうほうが近いかもしれない。
群衆はどこまでもアホ。闇市とか金儲けの巣窟というより、この市場は遊びに近いことやってるような感じ。

「今宵安らかに/私はイエスがわからない」
私の知っている四季のJCSを観た人たち、ほぼ全員が、「なんで、マリアは客席を向いて歌って、ジーザスは放置状態なの?」と不思議がる。
マリアのこのアッサリした感じが、のちに歌われる、やり直すことは出来ないのですかを、つまらない歌にしてしまっているのではないか。
あまりにもストイックなんで、高木マリアは、喪に服している未亡人のような印象を残す。そういうマリアを演じられるっていうのも貴重かもしれない。。。

「裏切/賞金」
最初のシーンからこの場面に至るまで、ユダの苦しみのトーンが変わらないので、ここまでたどり着く悩みの深さがかえって際立たない。
報酬の入った袋を掲げ持つユダをじっとジーザスが見つめる演出で、二人の道が分かれたのだということを描いているようだ。
だが、ジーザスはユダが何をしているのか、知っているというネタばれを起こしている。だから次のシーンで、「この中に裏切り者がいる」とジーザスが言う場面が劇的ではなくなっている。

「最後の晩餐」
日本人の多くが、キリスト教に疎いとしても、レオナルド・ダ・ヴィンチのあの有名な絵は知っているのではないだろうか。勿論、ダ・ヴィンチの絵は彼の想像だけど、舞台の奥で円陣つくって、パントマイムでパンと葡萄酒をやらないで欲しいなと思ってしまう私であった。
弟子達の背中越しに、♪その~ワインは♪、♪その~パンは♪とジーザスに歌わせるのは、宗教色をなくすための演出ということなんだろうが、いかにも不自然じゃないだろうか。

この最大の見せ場は、ジーザスとユダの激しい対立なのだが、「お互い悩みがあって大変そうだな」という以上の理解は観客には無理であろう。ジーザスの孤独、ユダの絶望の深さの原因が不明瞭。

ここで感じたのは、存在感でいうと、ユダが弱くてジーザスが強いバージョンだということだ。そこが非常に興味深かった。通常、JCSはユダの視点で描かれる、ユダから観たジーザスの物語だ。しかし金森ユダは、物語をひっぱる役割は担っておらず、ひたすら恋しい気持ちが言えずに悶々としている印象が強い。反対に、柳瀬ジーザスは、のびのびとしていた。少なくともジャポのときよりは。あ、白塗りじゃないから、表情が見えるせいか。。。

「ゲッセマネの園」
これまで3回のうちで最も良い出来だったのではないかしら、柳瀬ジーザス。
きちんと歌えていたという意味ではなく、俳優自身が、自分なりにとらえたジーザスを歌い上げることができていたのだ。
ジーザスとしては、クラシック調の歌い方はあまり好みではないが、ここまで歌えたら卒業しても良いのではないかなと思った。そろそろ新人さんにも出てきて欲しいな。
それか、山口ジーザス、今の年齢で歌ってみて欲しいな、などと想像する。

「ペテロの否認」
聖書の中でも有名なエピソードのひとつ。
ジーザスの予言どおりに、ジーザスを知らないと3度言ってしまうという場面。
・・・が、しかし、ペテロの一言「知るもんかっ、あんなやつ」という台詞を聞くと、やっぱり、ペテロの、というか十二使徒たちは、群衆たちとまったく変わらない扱いで演出をつけられていることをここでも確認した。

「ピラトとキリスト」
ピラトは、客席ばかり観て歌う。
♪窮地にありながら、冷静そのものじゃないか。
♪驚いたぞ全く。
という内容を、まっすぐ、前を向いてはっきり歌えば、歌詞は分かる。
しかし、ジーザスに対する彼の心情は、はっきりしないまま。

あ、それから、音響だが、歌が始まると、しゅーーーーっと音楽の音量を絞るのが分かるので、益々カラオケボックスっぽい。

「ヘロデ王の歌」
正統派な王様。

「やりなおすことはできないのですか」
スルー。すっごく良い歌なんだけど、何も残らない。
ペテロもマリアも、ジーザスにやり直したいと呼びかけるには、これまでの描かれ方では、動機が弱すぎる。

「ユダの自殺」
どうして愛したんだろう。
ユダのその叫びは伝わってきた。
しかし、このユダの消え方は、自殺じゃない。密告をするのはユダの本意ではなかったのだということを強調するために、あり地獄にはまったような抹殺のされかたをするということなのか。
裏切り者ユダは被害者だったのだという演出では、かえってユダの悩みも愛も軽くなってしまわないか?

「ピラトの裁判と鞭打ちの刑」
ここでもピラトは一本調子。ピラトに統治者としての威厳はない。
なんのためにジーザスがむち打たれるのか?
民衆の衣裳の色とセットがほぼ同じ色のトーンなので、岩なのか人なのかも分からないくらい。
民衆はその程度の存在感。それが「殺せ!」と叫ぶ。しかも、コーラスの大半は録音されているというのが明らかに分かる。

鞭打ち。。。これまでの静かな描き方から急にリアルな感じを出す。
ひっぱりまわされ、背中のムチのあとを痛々しく生々しくみせようというのは分かる。
観客にはこのシーンが一番心に残るのだろうか・・・・。うーむ-_-;

「スーパースター」
ユダとソウルガールの雰囲気が古くさい。80年代の洋楽PVみたいで。
舞台の両端に立って、歌うだけか~~~。とっても、がっかり。
こんな扱いじゃ~この曲がかわいそうだ・・・・orz
ソウルガール。天国から来てくれたんだから、もっときれいでセクシーな衣裳を着ようよ。

「磔」「ヨハネ伝第19章41節」
血がぼとぼとっとジーザスの手から落ちる。
ジーザスの最後の叫び声がとっても力強い。。。。
マリアがひっそりと十字架を見上げて、美しく終了。

ジーザスを十字架からおろすところで終わるプロダクションをいくつかビデオで見たけど、確かに降ろす意味はあるなと強く感じた。ラストシーンは、工夫しがいがある場面だ。

こんなにきれいに十字架にかかったままだと、ジーザスがステンドグラスか教科書の中に舞い戻ってしまうような印象を受ける。型にはまった「イエス様」のイメージを根底から覆す作品なのに、日本では逆をやるのか・・・。

カーテンコール
懐かしかった。音楽にあわせてみんな出てくる。これも昔と同じ。

カーテンコールの音楽が・・・文化祭とかで演奏するのにピッタリの明るいアレンジだった。

ついさっきまで十字架にかけられていたジーザス登場。

手も足もきれいに血をふきとられていて、白くて美しい。

そうだ、日本のJCSは

一人の美しい若者の物語なのだ。

ジーザスの清潔感あふれるきれいな白い手と足を見ながら、演出家の意図はここに集約されているのだと、その徹底した見事な手法に、妙に納得して、劇場を後にした。


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正直な四季のJCSに対する感想

私は聖書物語にこだわるようだけど、聖書っていうのは実は個々の人間のすっごい人間臭いエピソードにあふれているはずなのに、宗教だからという理由で、それらの物語まですべて平坦なものに変えられてしまっていることが残念でたまらない。

キリスト教の土壌がないからという理由で、ジーザスの時代のことや、エピソードもきちんと描かないまま、彼は最初から「美しい若者でした」と描いている。それも乱暴な話ではないだろうか。

きれいだけど、ジーザスがスーパースターと呼ばれる所以が分からないままだから、最後の見せ場で、ユダがトゲも毒もぬけきった「スーパースター」を歌わなくてはならなくなる。

違和感や拒絶を恐れずに挑戦するのがこの作品の本質にはあると思う。だから、魂の奥から揺さぶられるような、衝撃的な舞台を作ることが可能な作品のはずではないか、とファンであるが故に、ついつい、たくさんの要求をしてしまう。

まったく同じ演出(変わっているというのかもしれないけど)で、新鮮味もないのに、今もこの作品に観客が集まることに驚きを感じてしまう私。柳瀬さんや芝さんの功績なのだろうか。。。
この音響、このセット、この演出では、ジーザス役が新しい俳優に替わったとしても、私は再び観たいと思うだろうか。。。


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by tomokot2 | 2007-08-15 00:05 | ペ猫が観た舞台・ライブ


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