Freddie Mercury (September 5, 1946 – November 24, 1991)

2006年9月2日、フレディのお母さんJerさんのインタビューがThe Times誌に掲載されました。フレディの命日は24日でしたので、過ぎてしまいましたが、ずっとやりたいと思っていた記事の全文を翻訳させてもらいました。いたらない訳文ですが、読んでいただけましたら嬉しいです。(写真は元の記事とは関係ありません)



d0079799_1924879.jpgJer & Bomi Bulsara夫妻はフレディ・マーキュリーのほとんどのコンサートに足を運んだが、1985年7月13日に、彼等の息子が文字通り世界をロックさせたライブエイドには行かなかった。Jerさんは「あれはとても大きなイベントでしたらかね。大変なことになると思って。」と振り返る。「それで家でテレビを観ましたが、それはもう嬉しかったわ。夫は私の方を見て、『うちの息子、やってくれたな!』って。」

マーキュリーのステージにおける派手で、堂々とした姿と、Jerさんが現在住んでいるノッティンガム郊外の完璧なまでに手入れの行き届いた小さな家とは、なかなか結びつかない。
彼女の子供たち、FreddieとKashmiraは、二人の名前をあわせて「Fredmira」と呼ばれている。ふっくらしたクッション、時報を打つ時計、地味な装飾などは、ロックの神様の母親が住む場所には見えない。

彼女が愛してやまないフレディの美男俳優然としたスチール写真だけが部屋の雰囲気と違っているくらいだ(小柄なJerさんのふっくらした唇と顔中いっぱいの笑顔は息子によく似ている)。そして部屋の隅には息子がロックンロール・ホール・オブ・フェームを受賞した記念の彫像があり、壁にはフレディが14歳のときに描いた白と黒2頭の馬の絵がかかっている。

マーキュリーの人生は対照的なものを集めたゲームのようだった。彼は、アニメチックで、「ラジオ・ガ・ガ」や、かの有名な「ボヘミアン・ラプソディ」といった賛歌的な曲を熱唱するショーマンだった。その一方で、彼はかたくなに私生活を守り、口調は穏やかだった。また、大がかりで狂気じみたパーティー(噂ではこびとがコカインをふるまっていた)を開きつつ、英国にいるときは週に一度は母のもとを訪れて、大好物(dhansak)を食べ、「普通の家族の会話」をしていた。フレディは1974年に「New Musical Express」とのインタビューで、「ボクは(ギリシャ神話)ナルキッソスと同じくらいゲイだよ」と語ったが、公の目に触れることはなかった。彼は故意に自分自身をミステリーで覆い隠す保守的なセレブになった。

そして1991年11月23日、マーキュリーは声明文を発表する。「過去2週間、マスコミの多大な憶測がありましたが、私はHIVテストで陽性であり、エイズであると診断されたということをを明らかにしたいと思います。今日まで公にしなかったのは私のまわりにいる人たちのプライバシーを守る為に正しいことだったと信じています。しかし、私の友人達、世界中のファンの皆さんに本当のことをうち明ける時が来ました。皆さん、どうか私の医師達と、この重病と闘うあらゆる国の方々と思いをひとつにして下さい。私にとって私生活を守ることは大切なことで、これまでインタビューを受けてきませんでした。今後もそのようにすることをご理解いただきたいと思います。」

翌日、マーキュリーはエイズによる気管支肺炎で死亡した。彼が生きていたら火曜日に60歳だった。その日は数多くのイベントがあり、彼の家とブロンズ像があるモントレーは追悼デーがあり、ロンドンでは写真展が催され、ITVドキュメンタリー(番組)が彼の人生と遺業について検証する。
息子同様、母であるJerさんもインタビューはほとんど受けない。しかし彼女は息子が人々の心に残り、讃えられることを望んでいる。
彼女はインタビューの間ずっとティッシュを握りしめていた。傍らにはKashmiraの夫、Roger Cookeが同席した。

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マーキュリーはFarrokh Bulsaraとしてザンジバルで生まれた。家族は海を見渡せるフラットで「快適な暮らし」を営んでいたと83歳のJerさんは言う。ファルーク少年は快活で音楽、彼女が言うにはフォーク、オペラ、クラシックを愛していたという。彼が8歳のとき、インドの寄宿学校に入ることになった。「私はあの子の側を離れるときに泣いてしまったんですけど、あの子はすぐに他の子たちに溶け込んでいました。」とJerさんは振り返る。その学校でFreddieという名前(少年達は英語のクリスチャンネームをつけられていた)をもらい、The Hecticsというバンドを結成した。
d0079799_1613521.jpgd0079799_155782.jpgJerさんは、息子は反抗的ではなかったと静かにはっきりと強調した。「でもね、いつもショーマンになりたがってました。」1964年、ザンジバルでの革命勃発の折り、一家は英国に渡り、ウェストロンドンのFelthamに落ち着いた。「フレディはとっても喜んでいました。『イングランドは僕が行くべき場所なんだよ、ママ。』でも、そう容易いものではありませんでした。」Bomi氏は出納係として働き、JerさんはMarks & Spencerのアシスタントの職を得た。

フレディは美術学校に入った。「何になるつもりなの?とあの子に聞いたら、分からないって。フレディが仕事の応募用紙を書き込みながら、『受からなきゃいいな。』と言ってたのを覚えているわ。」フレディは、テレビでエルビスプレスリーを観て、「僕はいつかこの人みたいになる。」と宣言し、名字を彼の守護星にちなんでMercuryに変えた。
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d0079799_1913586.jpg写真はKashmiraと彼女をフレディがデッサンしたもの。










クイーンは1970年代はじめに結成された。Jerさんはクイーンの初めてのギグに行ったことを覚えている。「ブライアン・メイのお母さんと私は『あの子たちやっていけるのかしら?』と話しました。あの夜、私は『大丈夫だわ』って思いましたよ。」息子が有名になった後も彼女はM&Sでの仕事は続けた。

Jerさんは、マーキュリーの大胆なステージ上の人格をどう思っていたのだろうか?「あれはパフォーマーが観客を喜ばせるためのものでした。」では、パーティーやヘドニズムは?「親としては心配はしますけど、子供には子供の人生を歩ませてやらないといけないでしょう。」Roger Cookeが口を開いた。「フレディは自分の人生を仕事、社交関係、家族というようにきちんと区別していました。彼はそれぞれの境界線をはずさなかったんです。」Jerさんが続けて、「フレディは家族を尊重していたし、本当に愛してくれてました。」

Jerさんは息子がゲイだということは知っていたのだろうか?告白したのか?「いいえ。」彼女は感情がこみ上げて来たように、ティッシュを握りしめて下を向いた。Roger Cookeが「デリケートなことですから。」と言い、マーキュリーは家族には一切話さなかったと付け加えた。

少しして、リラックスした頃、Jerさんはフレディは人が彼をゲイだと知っても、どんなふうに思っても気にしなかったでしょうと言った。しかし、マーキュリーは公に言うことははばかった?「あの頃は、今とは社会が違ってましたよ。」とJerさんは言う。「この頃は何でもオープンになってるでしょ?」彼女は、もし今日息子が生きていたら、彼ももっとオープンになっていたのではないかと語る。

Roger Cookeはマーキュリーはカミングアウトすることでレコードセールスに影響を及ぼすことを心配していたから自然とプライベートになったのかもしれないと言う。「フレディは、『自分の人生は自分で決める』という人だった。恥ずかしがったというのとは違うね。プライバシーを守ったんだ。」「フレディは私たちに心配をかけたくなかったんですよ。」とJerさんは言う。「家族を巻き込みたくなかったのでしょう。」Roger Cookeは、「彼は人を違ったグループに分けて考えていたんです。」

「フレディは家に帰ってくると、彼自身になってました。」と、Jersさんは言う。「彼は現実的でした。」Roger Cookeが付け加える。「フレディのことを考えるとイーグルスの歌を思い出しますよ。・・・人生は良くなったけど。この幸運と名声を操るのは難しい。みんな変わってしまった。僕はちっとも変わっていないのに。」

フレディの病気についてはどうっだのでしょう?
マーキュリーの最後の6年間をパートナーとして過ごしたJim Huttonは、「Mercury and Me」という著書のなかで、1987年に陽性の検査結果を得ていたと述べています。Jerさんは再びつらそうにして、目をそらしてしまった。

Roger Cookeが答えた。「彼は家族の誰にも話しませんでした。僕らはフレディが病気だということは段々と気が付きはしたけど、一体何なのか、どんなに深刻なのかについてはまったく見当も付かなかったんです。そして、1990年8月、妻(Kash)と僕はフレディの足にあざのようなものを見つけたんです。カポジ肉腫(エイズによる結合組織の悪性腫瘍)だったんです。Kashがそれは何なのか、良くなるものなのかと尋ねるとフレディは、『僕の病気は助からない。僕は死ぬんだ。』とだけ言いました。エイズだとは言わなかった。すぐには呑み込めませんでした。僕と妻は車で自宅に戻る途中、カセットをつけたんです。そしたらよりによってフレディが歌う『Who Wants to Live Forever?』がかかった。突然、フレディが言った事の重大性が現実味を帯びたのです。」

では、エイズについてもっとフレディがオープンにしていたら、もっと良い結果が出ていたのではないかという批判についてフレディはどう思ったでしょうね?Roger Coookeが答えた。「フレディなら、『F*** ’em。余計なお世話だ。』と言ってたでしょうね。唯一、マネージャーのジム・ビーチだけがフレディに声明を出すことを説得したんです。」Jerさんが静かに言った。「フレディは世界の人々とファンに本当のことを知ってもらいたかったんですよ。」

マーキュリーは一度、母親に引退して画家になろうかなと言ったことがあったそうだ。「私たちは笑ってあの子に、そんなことさせないわよって言いました。だって、フレディは永遠に歌っていくと思ってたんですもの。」Roger Cookeが最後にフレディに会ったときは、「普通の話をしたよ。病気のことじゃなくて。」フレディは日本庭園の池の水を見つめていた。Jerさんは、自分の息子に最後に会ったときのことを静かに話した。「私はとても動揺していました。辛かったわ。フレディが、『ママ、大丈夫?マスコミにいじめられてない?』と聞くので、『いいえ。私たちのことは心配しなくていいのよ、フレディ。』って言いました。あの子はすごく具合が悪くて、それなのにまだ私たちのことを気遣ってくれたんです。」

フレディの死後、多くのタブロイド誌が彼のことを書き立てたが、その中にフレディは自分がインド人であることを隠していたというものがあった。Roger Cookeが、「だけど、フレディはインド人ではありませんよ。彼はパルシー教徒(インドのペルシア系ゾロアスター教徒)でした。パルシー教徒はインドに根付き、ちょうどユダヤ人が他国の文化に同化したようにインド文化に吸収されたのです。実際、パルシー教徒は、インドのユダヤ人として知られています。」しかし、一度もそのことについて語らなかったのは?「フレディにとって過去は過去です。彼は未来のことだけを話してました。」

マーキュリーの曲がラジオでかかると、Jerさんは辛くなることがあるという。彼女の好きな曲は、「Somebody To Love」。フレディの優しい声は彼を思い起こさせて悲しくなる。Bomi氏が3年前に亡くなり、Jerさんはぽっかり穴があいたようだという。しかし、彼女は自分を忙しく保っている。それに道ばたやスーパーマーケットで自分が誰であるかを気が付かれることにも慣れてきた。先日はある男性から「とてもお元気そうで何よりです。」と声をかけられたそうだ。

Jerさんは、親が最も経験したくない、我が子に先立たれるという苦しみを通ってきた。そしてかつて息子が家族に対してそうであったように、今では彼女が息子を強く守ろうとしている。彼女の励みとなっているのが、「ノッティンガムのフレディ・マーキュリーのお母様へ」と宛名書きされた沢山の手紙だそうだ。フレディの曲がどれほど人々の人生に影響したかがつづられている。Jerさんは、もしフレディが今も生きていたら、ロック・オペラを作曲していたのではないかと言う。フレディはインタビューで、自分は天国より地獄に行きたいと思っていると言ったことがある。「あっちではきっと凄く興味深い人たちに会えると思うんだよ。」

Jerさんはインタビューを終えたあともずっとティッシュを握りしめていた。しかし少しも悲劇的で孤独な人らしいところはなかった。彼女は、まるでマーキュリーが(おそらく耽楽的な)60歳の誕生日を祝っていたらと想像させるように、楽しそうに笑った。ザンジバルからノッティンガムへの道程は長かった。しかし、彼女の愛する息子がそうであったように、Jer Bulsaraさんもこのとてつもない旅を楽しんだのであろう。
by tomokot2 | 2006-11-25 14:21 | クイーン


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